飛び込むBlue

終わりはまだまだ遥か先の方だ

大人と夢と生活についての雑感

最近、年齢というものを意識するようになった。

「最近」というのはこの一、二年くらいのことだけれど、この意識は世間と比較すると、もしかしたらだいぶ遅いのかもしれない。要は自分と若い誰かを「比較」するようになったということだ。「比較」に意味は無いのかもしれないが、どうやら僕はいつの間にか「比較」をするようになったらしい。

どのような定義でもって人が「大人」と呼ばれるのかは、人によって定義が異なると思うが、最近、僕は「ある定義」において「大人」になったのかもしれない、と考えるようになった。これは僕にとってあまり良い意味ではない。誰かにとっては良い意味と捉えられるかも知れないが、僕の目線では良くない。

僕の考えている「大人」になったとみなされる「ある定義」とは、「生活を知る」ということだ。自分の稼いだ金で自分の生活をまかなうことを考えるようになると、「便利さ」や「必要さ」を意識するようになる。例えば電子レンジがあると、自炊がうまくできるようになり、生活のコストが下がって便利になるとか必要だとか、要はそういう意識だ。そうやって必要なもの、便利なもの、生活をうまくやっていくために、たちまち働いた金は消費されていく。

その中には、たとえば、精神をうまく保つために必要な出費もある。人によっては、キャバクラとかホストクラブとかもありえるし、「推し」への出費のたぐいも、場合によって必要な出費と言えるだろう。こうした出費を過剰にしないで済むように、ストレスにさらされない職場をえらぶのも、「生活」のひとつだ。

そうした「生活」は、子どものころには考えなくてよかったものだ。(もちろん、育った経済環境によっては、考えなければならない子供もいるだろう。僕の家族の経済環境は決して裕福ではなかった。しかし、僕の両親は少なくともそうしたことを考えないで良い子供でいさせてくれた。)

「生活」を考えなくて良い子どものころを、懐かしく思い出してみても、大人はふつう、子供に戻ることができない。年齢を重ねれば重ねるほど、「童心に帰る」ということは難しくなっていくだろう。

ただ、そんな大人こそ「夢」を持つことはできるのではないかと最近思う。自分に必要な「生活」の程度を把握し、その上で自分にとって良いこと、できることを探す戦略を考えられるようになる。労働をし、お金を使い、「生活を知る」事によって、「生活の外をつくりたい」という気持ちが生まれてくる。

子供の頃の「夢」と、大人になってからの「夢」。

少し似ていても、少し異なる気分はある。

 

今、僕の部屋では、洗濯機が回っている。乾燥機能がついていて、煩わしくないのがいいところだ。食洗機もあって、食べ終えた夕飯の食器を洗っている。これもわずらわしくなくて、とても良い。エアコンがあり、快適な温度に保たれている。

デスクがあり、デスクトップパソコンがあり、座りやすい椅子があり、文章を書きやすいようになっている。仕事は17時に終わり、17時半には帰宅し、18時には食事も洗濯も入浴も終えている。

そして、これらはすべて、「生活」の中で、僕が快適に文章を書くことができる環境のためのものだ。

 

むむむ。衝動的にここまで書いたが、うまくまとまらない。これらはすべて、夢のためであり、生活のためである。大人でありながら、子どもであろうとする努力だ。

今もまだ僕は、新しい小説を書くことに生涯をかけたい。