飛び込むBlue

ハロヲタ、30代男性、2019年、ジャニーズにハマる

SixTONESファン/ミュージカル初心者の初『エリザベート』〜第2幕〜

前回の続きです。

 

2幕。ルドルフとしての大我の歌声を聞いて、はっとしました。

 

別人のようだ。

僕がこれまで見ていたSixTONES京本大我では、ない。

発声も、表情も、発するオーラも何もかも違う。

そうか。これが大我が作った「皇太子ルドルフ」なんだ。

 

1幕の間、僕は本格的なミュージカルをはじめて目にして圧倒され続けていました。

それは未知の世界を体験する感覚でした。

まず発声が違う。

当たり前かもしれないが、響き方がまるで違う。

しかし、それに対しては「自分の知らない出演者の皆さん」のことだから、

「この舞台に出演できる人と言うのは、すごい人たちばかりなのだな」という

そういう感覚も強かったと思います。

 

ある意味で、その感覚はたぶん当たっていた。

けれどちゃんと気付いていなかった。

 

この舞台に出演できている京本大我も、すごい人なのだ。

 

この2幕で、僕の感情は右に左に揺さぶられました。

「ミュージカル エリザベート」という作品世界に。

そして、京本大我を含む、出演者陣のすばらしさに。

 

先に作品世界の話をしましょう。

この作品にはずっと通奏低音としてある問いが流れ続けています。

エリザベートの死の真相は? 動機は愛だったのか?」

これは最初のシーンで描かれた煉獄の裁判所から、ずっと観客が問われ続ける問いであり、僕もまたこのことに思いを巡らせながら観劇を続けました。

 

この問いは難しい。

本作はラブストーリーのようにも描かれている。中心を貫くのはエリザベートとトートの恋愛だ。

そして普通、ラブストーリーにおいて、愛はおよそ無条件に肯定されるものだ。

けれど、この作品は一味違います。

トートは黄泉の帝王であり、死を擬人化した存在として描かれます。

エリザベートは自由を希求する存在として描かれますが、ここでの自由とはあらゆる人や社会、様々な義務に縛られないことを指します。

そんな自由を志向するエリザベートの視点の先には、常に死があるのです。

生の世界に、自由はない。

観劇中、本作は極めてあやうい主張を試みているのでは、という疑念が何度も僕の頭をよぎりました。

その主張とは「自死の肯定」です。

 

僕はなにも「自死は悪だ」と断定的な考えは持っていません。

人には死ぬ自由があるとは思う。

ゆえに安楽死尊厳死をめぐる社会的な議論にも価値があると思う。

けれど、それはきわめて難しい問題のはずです。

僕は観客としてストーリーを追いながら考え続けました。

精神的自由を希求する皇妃エリザベートの愛のストーリーを持って、そんな難題に対して、この物語は何か答えを導けるというのか?

この物語は、いったいどんなメッセージを持っているというんだ?

それとも、やはり一般的な社会規範に従って、「死ぬなんてよくない、生きる歓びを愛せ」という「ごく普通の結論」に向かうのか?

しかし、であれば、このストーリーにおいて、愛は否定されるのだろうか?

 

けれど2幕中盤、観客は思い知らされるのです。

この物語は、どこまでも愛と死を同一視し、甘美なものとして描く。

その甘美さが極まり、美しくなればなるほど、観客は戸惑うのです。

 

 

その頂点こそ、皇太子ルドルフと黄泉の帝王トートの、死を導くキス。

そして「闇が広がる」。

皇太子ルドルフの周囲に闇が満ち、孤独な心を募らせてゆき、苦悩が彼を包む。

その闇の中だからこそ、死神の美しさ、甘美さが際立ちます。

 

トート「子どものころのあの約束は君が求めれば現れる」

ルドルフ「友だちを忘れはしない 僕は今不安で壊れそうだ」

トート「そばにいてやろう」

 

なんと甘やかなトート。なんと心にせまるルドルフ。

だが、二人が交わすのは死の接吻だ。

真面目なルドルフは、不安の中で壊れそうになり、死んでしまうのだ。

本来、このうえなく苦しく、悲しい、悲痛なストーリーのはずです。

それでも、物語はこの死に、この上なく美しいキスを重ねて描く。

広がる闇のなかで、ただひとすじのスポットライトが、

あまりに美しくそのキスを浮かび上がらせるのです。

 

僕はここで同時に、この物語が舞台作品であることの究極の意味を感じました。

「そうか、これは見るたびに違うんだ」

何度も何度もこの舞台に足を運ぶという方がいること、そもそもこの舞台が再演を繰り返されているということ、その意味を受け止めました。

ルドルフはトリプルキャストで、トートはダブルキャスト

回を変えれば、キャストも異なり、ルドルフとトートの表情は異なるのだ。

いや、たとえ、同じ組み合わせでも、回を重ねることにより、

その日にしか見られないルドルフとトートがそこにいるのだろう。

 

だから、僕が目撃した「愛と死の甘美さ」は、きっと回により異なる。

ある回ではルドルフが死を受け止める様子が安らぎのように見えるかもしれないし、ある回は極めて悲しく傷ついたルドルフが印象に残るのかもしれない。

 

僕が見た回の古川トートはあまりに美しく、圧倒的で、すさまじい引力を感じました。

有無を言わさぬ説得力。引き込む力。

この上なく甘やかで、その視線でとらえたすべてを絶対に逃さない黄泉の帝王だった。

けれど、大我ルドルフもその引力に負けてはいませんでした。

その道しかないと覚悟を決めた切迫感、死という道に身を投じる覚悟、黄泉の帝王の前でも臆しない気高さ。

それはたぶん、間違いなく大我ルドルフだからこそ魅せられた迫力でした。

 

 

物語はルドルフの死を超え、ついにエリザベートの死へと向かいます。

僕はようやくこの物語の終わりに差し掛かり、この物語の巧妙な仕掛けに気付きました。いや、むしろ、最初からずっとそうだったのだ。

 

この物語の観客は、最初から最後まで、煉獄の裁判を見守る陪審員なのです。

だからこの物語は「答えを出さない」。答えを見出そうとするのは観客の役目なのだ。

エリザベートの死の真相は? 動機は愛だったのか?」

それにも決して物語自体は答えを出さない。

死とは、愛とは、肯定するべきものなのか?

それもすべて、キャストの表現するものを見つめながら、観客が考える事なのです。

今回のブログでは強く語らなかったけれど、例えばルイジ・ルキーニの存在をどうとらえるかによっても、この物語の見え方はまるで異なってきます。

 

なんて面白い。

そう、本作のすべてはキャストの表現に託されているのです。

繰り返しの再演に耐える作品の力とは、こういうことなのか。

 

物語の最後。

エリザベートの死にあたって「なんの具体的なメッセージも発されない」という、ある意味では、アクロバティックなラストを目の当たりにして、僕は心の底から拍手を打ちました。

ただ淡々と最後の死が描かれ、その死の真相をどう受け止めるかは、その日、素晴らしいキャストたちが演じた「エリザベートの生涯」を前に陪審員=観客が考える事なのです。

 

今回、僕はエリザベートを1回しか観劇できませんでした。

でも、もしかしたら、1回で良かったのかもしれない、とも思います。

「また見たい」。今のこの思いを大事にしたいと思います。

同じ作品を何度も見たいと思うものだろうか?

観劇前、どこかそういう風に思っていた部分が多少僕にはあったからです。

こんなにミュージカルって面白いのか!

 

本当に素晴らしいミュージカルは、再演の度に違う表情を見せるのでしょう。

1度きりの鑑賞でしたが、本作にもその予感を感じとる事ができました。

そして、このすさまじい表現の世界に身を投じた大我のことを、

改めて見直す機会になりました。

 

僕が知っていた京本大我では全然なかった。

僕は京本大我を全然わかっていなかったんだ。

こんな舞台に立つことができている、京本大我って、ものすごい人なのだ。

 

大我ルドルフは2015年、2016年に続き、今回が3回目だそうです。

連れて行って下さった同行者さまは、長年ミュージカルを何度も観劇されている、とてもミュージカルに詳しい方でした。SixTONESのファンであるよりも前に、ミュージカルファンとしての歴がとても長い方でした。

その方がこんな風におっしゃってました。

 

1年目の大我くんは、まだ子どものようだった。

2年目の大我くんは、すごく成長していた。

今回は、大我ルドルフの集大成ではないかと思います、と。

 

その大我ルドルフの集大成を間近で見る事ができて、本当に感激しました。

「いつか大我のトートを見てみたい」とも思いました。

僕の思い込みでしかありませんが、この願いはいつか叶うような気がしています。

 

このブログを書いている途中、5月に東京・日生劇場で上演されるミュージカル『ニュージーズ』への主演が決まったことを知りました。

しかも今回のエリザベートの演出を手掛けた、小池修一郎氏の演出であると。

楽しみで仕方がありません。