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終わりはまだまだ遥か先の方だ

【ネタバレ有】映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」感想

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本当にいままでのエヴァにすべて決着がついたなと思える作品でした。

なるほど、あれだけ戸惑いを生んだ「Q」の展開は、ここにたどり着くのに必要な方向転換だったのだと、理解できました。

今までのエヴァは「着いてこれないなら良い、帰れ」と言わんばかりに謎を振りまき、風呂敷を広げ、魅力的だが暴力的な作品でもありました。それはそれで魅力的だったし、だからこそこれだけ多くのファンを虜にしつづけたのだと思いますが、本作はちゃんとそこに「責任をとる」ことを選んだのだと思います。

 

「責任をとる」――これがどれだけ難しく、なかなかできないことであるか。

かつて使徒という災厄を目の前にした人類は、そのあまりに大きな重責を14歳の少年に背負わせるという選択をした。

しかも、その14歳の少年に、碇ゲンドウは「乗るなら早くしろ、でなければ帰れ」と言い、葛城ミサトは「エヴァに乗るか乗らないかは、あなた自身が決めなさい」と言った。

心理学や教育学で使われる用語に「ダブルバインド」という言葉がある。メッセージとその裏に隠されたメタメッセージとの間に矛盾が含まれている状態のことを言う。あなたが決めていいよと言いながら、その裏で本質的にはその決断を委ねていない。

かつて碇シンジが突きつけられたのは紛れもなくダブルバインドであり、そしてダブルバインドはとてもずるいメッセージの伝え方だ。

 

集団や組織における意思決定、責任を取るというのは非常に高度な能力だ。だからこそ「責任者」という存在がある。

「責任」とは、精神的に未熟な子どもに突きつけて良いたぐいのものではない。

古今東西あらゆる物語において、年端もゆかない少年少女が世界の命運を握ることは珍しくない。

けれど、任せるのなら任せる側の責任もある。

 

旧アニメや旧劇場版にはなかった「Q」の展開、それはこの「責任」を取るために必要なルートだったのだと思います。

「ニアサードインパクト」から14年という時を経て、葛城ミサトおよび旧NERV職員らが、反NERV組織「ヴィレ」を結成したのは、責任者が責任を取り、組織が組織として機能し、大人が大人の道を歩むために必要なルートだった。

未熟な子どもに呪いをかける「NERV」のやりかたが間違いであったことを認め、集団で、チームで仕事をする。コミュニケーションを取り、それぞれが決定するべき領域を決定し、お互いを信じ合い、各々が独立した個体として集団を形成する。

それこそが「シン・エヴァ」で描かれた美しい「人類」の姿だと思う。ひとりよがりで天才的な個体ではなく、責任者が明確な組織においてお互いの領域を守り、協力し合うチーム。

 

「Q」においては「責任を取る」大人になることができなかったシンジも、「シン・エヴァ」ではようやくその領域にたどり着くことが出来た。シンジにも当然、時間は必要だった。子どもだったのだから。

ある意味ではこの「エヴァンゲリオン」という作品が完結までに長い間を必要としたように、周囲は彼が成長する姿を、静かにただ見守ってやらなければならなかった。

 

「シン・エヴァ」において、葛城ミサトは本当の意味で責任をとることのできる大人となり、正しく碇シンジに「任せる」ことができた。そして碇シンジもまた大人となって、現実と向かい合い、責任を取る道を選んだ。

毒親の責任を子どもが負わなければならないという何とも残酷な話だけれど、実際のところ僕たちは、親を選ぶことはできないし、生まれ育った土地や血縁をすべて放り投げることはできない。

もちろん、誰もが生まれ育った来し方すべてに向き合って「大人になれる」わけではないとは思う。それでもシンジは大人になれた。駄々をこね続け、すね続け、自暴自棄になり、逃避し、逃避し、その先に、それでも優しく見守ってくれた大人たちの中で。

 

シンジが最後にマリを選んだのも頷ける。彼女は唯一「仕事として、組織のメンバーとして、責任を果たす」大人であり続けた。

それは普通にできねばならないことなのかもしれないが、なかなか出来そうで出来ないことである。

そんな彼女に対して生まれる感情はリスペクトだ。かつて少年だった視聴者は、シンジとしてレイやアスカに恋をしたかもしれない。自分の影に寄り添ってくれるレイや、自分をひっぱたいてくれるアスカに。

でも、シン・エヴァではみんながそれぞれ大人になった。失敗を覆し、世界を救うという大仕事をやり抜くことができた大人同士が、互いへのリスペクトを持ち、手を携えて、今度はふたりで生きていこうというラストなのだと思う。

甘酸っぱくもほろ苦くもないけれど、人間らしい。

 

エヴァを見て僕は、改めて省みることになりました。

僕はおとなになっただろうか。なれただろうか。なりたかっただろうか。なれていなくても、よいのだろうか。

でも一つだけ言える。僕は組織で戦った大人を、責任を取った人を尊敬する。

 

凄まじい破壊力と影響力を誇るこの遠大で壮大なストーリーに、明確な終止符を打とうと奮闘し、決して投げ出さず、放り投げず、Qという明確なルート変更を決断し、泥臭くも説明を重ね、多くの伏線をパワフルに回収してみせ、この決着にたどり着いた庵野秀明監督に、拍手を贈りたい。

おめでとう。そして本当に本当にお疲れさまでした。